書家 小野﨑啓太

清雅堂法帖

2018.5.14

清雅堂法帖

古典を習うとき、私たちはその原拓や本物の石碑を目の前に書くことができるわけではない。
常にそばに置く古典を冊子状にしたものを、「法帖」という。

石碑からとった拓本を印刷したものだ。
一口に拓本と言っても、取った時代や技術によって、同じ古典であっても実に様々なもになる。
拓を取ることは原石を痛めることにつながり、現代では拓を取ることも禁止されている古典も多い。それだけに良拓と言われるものはとても貴重で、なかなかお目にかかれるものではない。

そうすると、市販されている法帖の類いも、実は会社や出版年代によって様々なことになる。
有名な古典であれば、いくつかの日本の会社と、中国製のものが、今はAmazonなどでも簡単に手に入る。Amazon 曹全碑

いくつか好きな古典で見比べてみるといいと思う。 拓の善し悪しに加え、写真技術にもより、見え方はずいぶん異なる。

毎日、それを使って古典の勉強をするとなると、当然、良いものを見ることが一番である。 悪いものを見続ければ、そのぼやけた感覚は身についてしまう。

有名な会社と言えば二玄社。 今は中国法書選、というものを出版している。
これで十分といえば十分事足りる。
以前は二玄社で、書跡名品叢刊という法条が出版されていた。 今は絶版となっているが、かなり重版されているので今でも古書店やネットではよく見かける。
現行の中国法書選よりも出版された古典数はかなり多く、拓自体も中国法書選とは異なるものが多い。書跡名品叢刊の方がはるかに良い。安価で手に入れるなら今だと思う。

さて、昭和の戦前から末期にかけて、多くの書家が愛用した法帖がある。

今も神田に書道用品店を構える「清雅堂」の法帖である。

この清雅堂の法帖は、まず、拓が良い。 非常に精細に古典の細部を見ることができる。
そして、紙が和紙で出来ている。現代に出版されているような洋紙は、蛍光灯が紙に反射してしまうため、精細に欠くことがあり不便なのである。
もちろん、文字の一部が切れているとか、ゆがんでいるとか、写真によるピンぼけのようなものもない。
まさに本物の拓を横にして書いているような感覚を味わえるのが「清雅堂法帖」なのである。

また、拓本ではない古典に関しても「清雅堂」の法帖は秀逸である。
拓本ではない、つまり石碑ではない直筆の古典に、直接カメラを当てて撮った印刷。
であれば、現代の技術の方が精細さはある。 はずであるし、それに違いはないのだが、どうしてもデジタル独特の固くツルッとした画面が、文字のもつ固有の息づかいを殺してしまう。
一見見るには現代の法帖のが良いのだが、フィルムカメラから撮ったと思われる「清雅堂」の法帖は、白黒ではあるのだが見飽きない良さがある。

まさに、書家のために心を込めて作られた法帖なのだ。

だが、やはり無念かな絶版であり、何種類、どの程度販売されたのかも、私にはわからない。
この法帖の良さに気づき、買い集め始めたのは十年程前だと思う。

私が生まれる前に絶版になっているのだから、アテは古書店かネットだった。

ずいぶん買い集め、今は30程度の清雅堂法帖が手元にあるが、
原拓など手に入るはずもない現代、本当にどれも宝物なのである。

十年使いこんだ「弘法大師 風信帖 灌頂記」は三冊ある。
だめになったら新しいのを使いたいからだ。

とにかく、どの道具をとっても、良いものに限る。
駄物は腕を駄物にするし、目を駄物にする。

清雅堂法帖、見かけたら是非、手を出すべきものと思う。

http://jimbou.info/town/ab/ab0094.html

清雅堂の記事があったので是非ご覧ください。
記事中に出てくる「梅崎龍三郎」とは、画家の梅原龍三郎の間違いではないかと思う。

確かに、昔の人は、本当に誰も達筆であり、達筆というその意味は、それらしい字を臆せず書いたと言うことでもある。