書家 小野﨑啓太

拓本

2018.5.22

拓本

なぜ書道なの白黒反転しているのだろう? 書道をやり始めたばかりのひとなら、そう感じるかもしれない。 白黒反転の理由は、それが「拓本」だからである。拓本とはどんなものだろう。

拓本は印刷技術のまだない時代に中国で生まれた。
現在残る最古の拓は1900年代に敦煌莫高窟で発見された太宗皇帝の「温泉銘」などだ。

拓本のとりかた http://www.ysn21.jp/~eipos/data/02_WB/h15/takuhon/taku_5.html

石碑などに画仙紙を貼り付け、水でしめらせる。
石のくぼみまでしっかりと紙を定着させ、少し乾いてきたら墨を含ませたタンポでたたくと、
石のくぼんだ部分が白く残る。

というものである。

十円玉などに紙を乗せて、鉛筆で染めるように紙をなぞると模様が残る。
一度は誰もやったことがあるだろうが、それも乾拓といい、拓本をとるひとつの技術である。

ほとんどの拓本は、紙に水を含ませ密着させる「湿拓」である。

単純なようだがこれがかなり技術を要するもので、本当に難しい。
私は何度か試したことがあるが、まず対象となる石と紙の間に空気が入ってしまいうまくいかない。
タンポをたたくときも乾燥を注意しながらそれなりの速さと正確さが求められる。

紙が乾きすぎても湿りすぎてもうまくはいかない。

拓本の種類と技術。http://yatanavi.org/rhizome/%E6%8B%93%E6%9C%AC

どういう技術で、いつその拓をとったのか。

時代や技術によって同じ碑面からの拓本でも見え方はまったく違ったものになる。
乾燥状態でさえ違うのだから、同じ拓本は二つとないと言ってよい。

時代が違えば、碑面の文字は風化しているかもしれない。
先に拓をとった者が、後から取る拓の価値を下げるために(結果的に自分の拓の価値を高めるために)碑面の文字の一部を削り取る、なんてこともされた。

拓本を取ること自体が碑面を傷めることになるので、古典になるほとんどの石碑で今は拓本を取ることが禁止されてもいる。

「拓本」
言うまでもなく二次的なものである。

原碑に刻まれる前には、紙に書いたものがあったはずだ。
それを石碑に刻んだ。そして拓をとる。

私たちが普段目にするものは、その拓本の中でもごく一部の、
印刷されたものに過ぎない。

紙に書いたものを実像とするなら

紙の書→ 石碑 → 拓本 → 印刷

石碑から拓本までは千年以上経過している場合がほとんどだから、
実像からはいかに離れたものになるのかと思う。

しかし、すべての拓本が実像から離れるというわけではない。

やはり良拓と言われるものを間近に見たときは、
その総合的な力、
石碑の精細な刻法、そこから沸き上がる力、実像に勝るとも劣らない書の総合的な美を感じるのだ。

筆をとった筆者が有名である場合が多いことに対して、
それを刻した刻者の名を知ることは私たちはほとんどない。
拓を取った者の名前を知ることもない。

それを本として法帖に仕立てた(剪装本)ひとの名を知らない。

たとえば九成宮醴泉銘は歐陽詢の代表作だが、私はそこに刻者の意思を組まずにはいられない。
筆の動きとしての書を感じるよりも先に、まずそのピンと張り詰めた線に刻法の鋭さを感じる。

同じ初唐の代表的な楷書である雁塔聖教序などとは、刻法にも碑面に求める美的感覚にもかなりの差があるように感じる。
つまり、碑としての美をもとめるのか、紙に書かれた書の再現をもって美とするのか、その比重である。

雁唐聖教序はその意味で、かなり紙からの書を正確に刻すことに比重が置かれた作のように思うし、
九成宮醴泉銘はそれまでの伝統的な刻法に重視を置いているように感じる。

どちらが良いということではなく、それらすべてが相俟っての総合的な美こそが、書の美なのだと感じるのだ。

印刷され市販されているものでも、これほどの違いがある。
同じ「張遷碑」ではあるのだが。

左は   二玄社・書跡名品叢刊
中心は  二玄社・中国法書選
右は   清雅堂法帖

である。
まず目につくのは線の痩肥である。

中国法書選も良い拓なのだと思うが、やや他と比して線が痩せてみえる。

私はやはり清雅堂法帖が好きなのだが、好みの問題もあるだろう。

どれにも特徴があり、その中から「張遷碑」を見いだす目が必要だと感じる。

いくつかこれまでに出会った拓を紹介させていただく。

始平公造像記
牛橛造像記
曹全碑
萊子侯刻石

である。 この牛橛造像記にはどこか柔らかみを感じるし、
普段ひらっと見えてしまいがちな曹全碑にも筆力と圧を感じる。
萊子侯刻石は精細さは他に劣るにしても拓そのものがもつ雰囲気が美しい。

書の歴史は筆の歴史・・・と思うが
刻されたものの歴史でもあり、拓の歴史でもある、
それらすべては、ヒトの手によるものであり、その総合的な美こそが、書の持つ美に違いない。

(前回のブログで清雅堂法帖を紹介させていただいたところ、ブログを読んでくれた友人から連絡をいただいた。神田にある清雅堂は昨年12月に店をたたんだとのこと。歴史と趣のある店舗が好きだった。 昔からのこういったお店がどんどん姿を消すことに、本当にさみしさを感じる。)