書家 小野﨑啓太

歯車 ~超大作~

2017.12.14

歯車 ~超大作~

大作を作る。
大作を作ることは、一つの信念とプライド。
なぜ大きくなければならないの?って。
大きいとおもしろい。 大きいと人が集まる。
甲骨文「歯車」
甲骨文は殷代の文字である。これを現代的な感覚での「文字」と比較して考えると、ずいぶん大きな隔たりがあるように思う。文法においても文字の構成においても、現代の世界で使われている文字、文章とは大きく違うのである。
文法や用途、文字自体の構成が近世に近い形で整理されたのは、秦の始皇帝が統一した小篆である。それ以前は、地域や年代によって様々な「文字」が使用されていた。その代表格が殷の甲骨文、周の金文である。
甲骨文、金文はそれほど古い文字であるにもかかわらず、書作の題材とする現代の書作家は絶えない。これまでもたくさんのものを目にしてきた。それらを書作とする際、そもそも筆が発明される前の刻されたり射込まれたりした「文字」に対し、どのような「筆法」を与えるかは、永遠のテーマのようである。戦後、金文を主に扱った大作家は数多く、それぞれが模索し、その筆法はいまや定着しつつある。
予め断ると、それら筆法にNOを言うわけではないが、どうもどれも、これまで個人的にはしっくりこなかったのが本音である
筆法のないものに筆法を与える必要性はあるのか? 甲骨文、金文に対し、小篆のような変化の少ない丸い均一な線を与えたり、隷書のような起筆を与えたり、行草体のような流暢な変化を与えたり。そこにどんな必然性があるのだろう?
文字に、社会性、政治性があり、そこから生まれる通念があるとすれば、それは小篆以降のことである。そのことが、現代に連なる壮大な筆法芸術を生んだとすれば、それ以前の文字にはどう対処すべきなのか。私にとってもひとつのテーマだった。
それに明確な答えは生まれないが、どうしても思うことがある。やはり、古代の文字には「法」はないのだということ。
現代の法をもってそれら古代の文字を考えることには、やはり疑問なのだ。
古代の人々は、文字を残すことに最も飢え、文字に最も工夫を凝らし、最もその必要性を感じていたはずである。そこからは、根源的で、原始的な強いエネルギーを感じる。現代的な感覚からすれば、稚拙と言わざるを得ないものの裏側に隠れた強いエネルギーは、それを感じるだけで現代の書作とするに値するものと感じるのだ。決して現代の感覚で圧するような法のものにせず、その理のみをとって現代の書とするにことはできないものか。 今回は、それを作品にする挑戦だったと思う。
素材を「歯車」とした。
「歯」と「車」に分けてもよく、
人間を含む動物が持つ最高の道具、「歯」と、人間だけが持った最高の道具「車」(車輪)の組み合わせだ。
どちらも甲骨文では本当に素敵な、そのままのカタチをしていて、古代人にとって重要なものだったことがわかる。
車輪と歯が組み合わさって、機械ができて、やがて現代文明へと結びついた。
芥川龍之介の「歯車」の陰鬱とした人間のエネルギーを加味し、イメージの上にはピカソの「ゲルニカ」も参考にした。

おこがましくも「作品に」と言ったが、これはこれであり、甲骨文、金文を扱った完成ではない。今後、私が甲骨文や金文を扱った作品は多くならないだろうとも思う。
そんなに簡単に描ける世界ではなく、やはり現代からもっとも遠い世界であり、だからこそ魅力もあるのである。

 

小野﨑啓太