大作を作る。
大作を作ることは、一つの信念とプライド。
なぜ大きくなければならないの?って。
大きいとおもしろい。 大きいと人が集まる。
甲骨文「歯車」
甲骨文は殷代の文字である。これを現代的な感覚での「文 字」と比較して考えると、ずいぶん大きな隔たりがあるよ うに思う。文法においても文字の構成においても、現代の 世界で使われている文字、文章とは大きく違うのである。
文法や用途、文字自体の構成が近世に近い形で整理された のは、秦の始皇帝が統一した小篆である。それ以前は、地 域や年代によって様々な「文字」が使用されていた。その 代表格が殷の甲骨文、周の金文である。
甲骨文、金文はそれほど古い文字であるにもかかわらず、 書作の題材とする現代の書作家は絶えない。これまでもた くさんのものを目にしてきた。それらを書作とする際、そ もそも筆が発明される前の刻されたり射込まれたりした「 文字」に対し、どのような「筆法」を与えるかは、永遠の テーマのようである。戦後、金文を主に扱った大作家は数 多く、それぞれが模索し、その筆法はいまや定着しつつあ る。
予め断ると…、それら筆法にNOを言うわけではないが、どうもどれも 、これまで個人的にはしっくりこなかったのが本音である 。
筆法のないものに筆法を与える必要性はあるのか? 甲骨文、金文に対し、小篆のような変化の少ない丸い均一 な線を与えたり、隷書のような起筆を与えたり、行草体の ような流暢な変化を与えたり。そこにどんな必然性がある のだろう?
文字に、社会性、政治性があり、そこから生まれる通念が あるとすれば、それは小篆以降のことである。そのことが 、現代に連なる壮大な筆法芸術を生んだとすれば、それ以 前の文字にはどう対処すべきなのか。私にとってもひとつ のテーマだった。
それに明確な答えは生まれないが、どうしても思うことが ある。やはり、古代の文字には「法」はないのだというこ と。
現代の法をもってそれら古代の文字を考えることには、や はり疑問なのだ。
古代の人々は、文字を残すことに最も飢え、文字に最も工 夫を凝らし、最もその必要性を感じていたはずである。そ こからは、根源的で、原始的な強いエネルギーを感じる。 現代的な感覚からすれば、稚拙と言わざるを得ないものの 裏側に隠れた強いエネルギーは、それを感じるだけで現代 の書作とするに値するものと感じるのだ。決して現代の感 覚で圧するような法のものにせず、その理のみをとって現 代の書とするにことはできないものか。 今回は、それを作品にする挑戦だったと思う。
素材を「歯車」とした。
「歯」と「車」に分けてもよく、
人間を含む動物が持つ最高の道具、「歯」と、人間だけが 持った最高の道具「車」(車輪)の組み合わせだ。
どちらも甲骨文では本当に素敵な、そのままのカタチをし ていて、古代人にとって重要なものだったことがわかる。
車輪と歯が組み合わさって、機械ができて、やがて現代文 明へと結びついた。芥川龍之介の「歯車」の陰鬱とした人間のエネルギーを加 味し、イメージの上にはピカソの「ゲルニカ」も参考にし た。
甲骨文は殷代の文字である。これを現代的な感覚での「文
文法や用途、文字自体の構成が近世に近い形で整理された
甲骨文、金文はそれほど古い文字であるにもかかわらず、
予め断ると…、それら筆法にNOを言うわけではないが、どうもどれも
筆法のないものに筆法を与える必要性はあるのか? 甲骨文、金文に対し、小篆のような変化の少ない丸い均一
文字に、社会性、政治性があり、そこから生まれる通念が
それに明確な答えは生まれないが、どうしても思うことが
現代の法をもってそれら古代の文字を考えることには、や
古代の人々は、文字を残すことに最も飢え、文字に最も工
素材を「歯車」とした。
「歯」と「車」に分けてもよく、
人間を含む動物が持つ最高の道具、「歯」と、人間だけが
どちらも甲骨文では本当に素敵な、そのままのカタチをし
車輪と歯が組み合わさって、機械ができて、やがて現代文
おこがましくも「作品に」と言ったが、これはこれであり
そんなに簡単に描ける世界ではなく、やはり現代からもっ
小野﨑啓太