書家 小野﨑啓太

書道界

2018.4.18

書道界

書道界の一員として責任をもって申し上げたい。

書道団体が成立する背景には、団員一人ひとりから徴収する年会費がある。

所属する財団法人独立書人団の年会費は、

会員で50,000円

会友  13,000円
準会員 30,000円
会員  50,000円

だと思う。 これが年間に必ずかかる会費であり、ご覧の通り団員としてのランクが高くなるにつれて年会費も上がる仕組みになっている。
ランクは受賞回数や所属年数の規定によって徐々に上がっていく。
いわゆるえらい人ほど高く払う仕組みだ。これはどこの書道団体でもそうではないかと思う。

これだけで団員としての維持ができれば、、とも思うが、これはあくまで「年会費」である。
このほかに「出品料」「選定料」や、ほか、団主催のパーティーや会合があればその都度かかる。 決してどれも 安い と言える値段ではない。

ひとつの団体の所属なら以上だが、たいていはいくつかの団体に入会しており、独立書人団員は毎日書道会にも所属している場合が多い。

こちらの毎日書道展の年会費は会員の私で60,000円である。

それ以外にも自治体単位での団体がいくつもあり、維持費を支払う。

これらは「団体」の維持費であり、作品の製作費は当然また別だ。

製作費はそれぞれどの程度かけるかによるが、筆・墨・紙・硯は決して安いものではない。特に近年は中国から輸入されるものの物価上昇に歯止めがかからない。国内のものでとどめられる範囲とそうでないものがあり、国内産も安いわけではない。

私の筆は一本100万円を超えるものもあるし、安くても1万円。
墨は数千円からで、ものによっては10本20本と使う。
紙も同じく消耗品だ。一反(50枚)で15,000円としても、一度で4反使えば6万円がかかる。
額装してもらうために業者へ支払う表具代は平均して1万円。 大きいものであれば10万円を超えることもある。

そして私たち「習う身」にある若者たちはそれぞれの師匠への月謝がかかる。

道具をはじめ、かけはじめれば限りなくお金はかかることがわかると思う。
日々の練習も多くの消耗品を使うし、製作にはさらに使う。

ただ書道にはお金がかかることを伝えたいのではない。

どの芸事にもお金はかかる。どの分野も一流である人(そうなろうとする人)はそれぞれに苦心してお金をやりくりしているはずだ。
数百万のピアノやバイオリンと聞くと驚かれるかもしれないが、書道も負けず「お金のかかる」芸道だと思う。(決して単純な比較はできない)

それでも私は、
道具にはお金をかけるべき。 人より良いものを使う。
そういう主義は今後も変わらない。
そしてその主義にしたがってやってきた。

しかし、ここで述べたいことは、

本当にこのままで、書道団体の未来は大丈夫なのか?
ということだ。

そうでなくても少子高齢化。若者の興味関心の範囲の変化も拍車をかけ、文化、芸術を背負う団体は実質的に若者はほとんどいないのではないか、と危惧している。

いま書道団体を支えているのは、50代以降、60代、~の人たちの人数とそれによる会費だ。
ほぼそこに頼っていると言っていい。

あと15年、20年先を見越したとき、本当に今のままの運営方法で良いのか?

ということが甚だ疑問なのである。

ランクとともに高い年会費を課していく制度では、
「そこまでして受賞をしてランクを上げなくても」と考える人が出るのはむしろ自然な流れである。

家庭をもって仕事をもってさらに自分の芸に磨きをかけたいと本気で臨むこれからの若者たちにとって、高い年会費や社中制度などはとても高いハードルになると思う。
志を折るようなことになってはならない。

「私はそれでもやってきた」
と考える年配の方々には本当に申し訳ないが、時代がまるで違うのだ。

少なくなっていく絶対数、国全体の経済状況も20年前とは比較にならない。

WebやSNSの登場は人の思考そのものを変えている。
「無理に展覧会で発表する必要はない」
と考える時代なのだ。
しかしこのような考えにも一長一短があり危惧するべきことがあることは言うまでもない。人と人が接する中でしか掴めないものがあるのだ。

そのような中で、これからの若者にどのように芸を伝え、創造を促し、承け継いで行ってもらうかを考えることは、喫緊の課題のように思う。

本当にそれほど高い年会費等を徴収する必要があるのか。

毎年東京を中心とした大きな会場を借りて展覧会を大々的に催す必要はあるのか?
大きな会場に飾られることは、確かにそれは気持ちの良いことである。芸術の訴えにもなるかもしれない。けれど、それはこれから20年、30年続けばこそ若い人達にも意味のあるものになるのだと思う。団体主催の大規模な展覧会自体が既に時代とマッチしてはいないのかもしれない。いずれにも潮時があると思う。
もっと規模を小さくした中で、各々の工夫の通る中で試行錯誤してもよいのではないだろうか。

毎年印刷される団体の作品集などは、必要があるのか。
ウェブ主体のものに変更すれば経費は大きく浮くのではないか。

郵送料がかかる、紙媒体のダイレクトメール(案内状)などはメールやウェブ告知で済まないのか。

毎日展、読売展などの新聞社主催の展覧会は、新聞社が主催する意味合いはどこにあるのだろうか?
一度の展覧会で数億円集まるだろう出品料が、どこに流れるか、私たち会員には知らされることがない。

お金のこと、人のこと、いまのトップの人たちが良く考えて進んで行かなければ、文化自体が廃れてしまう。

常に考えるべきは、次代を担う者たちのことと、時代にあった文化の在り方ではないかと思う。
戦後の書道をつくってきた人たちには敬意を持っている。しかし苦言を申し上げれば書道界は組織として大きくなり過ぎている。組織も頭だけが大きければ、傾くのは早い。

そして、若者たちは。
いま置かれている自分の状況が当たり前と感じてはいけない。
そのやり方のみが正当で唯一の方法、(これは制作理論にも通じる)と思ってはならない。
自らがおかれている立場と背負うべきものを認識し、
自分のため、周りのためにも、文化のこと、活動のこと、これからのことを、どんどん発信していくべきだと思う。
このような時代に生まれて活動していながら、何も発信していかないことは自らの首を絞めるようなもの。

書道人口は数百万人といわれる。 若者だって1パーセント以上はいる。

一万人が声をあげれば、未来は変わる。