書家 小野﨑啓太

『秦』ってどんな時代??

2018.3.9

『秦』ってどんな時代??

陝西省 兵馬俑にて 2014年撮影

「秦」(紀元前221~206)は長きに渡った戦乱の時代を制し、始皇帝により初めての統一王朝となったが、わずか十五年で滅びることになった。

この時代の文字は、「小篆」。秦の始皇帝が全国に統一した文字である。

統一を果たした始皇帝は自らの威厳を示すために諸国を巡幸した。さらに首都咸陽の宮殿の造営、自らの墓となる始皇帝陵・兵馬俑の建設、万里の長城の建設など莫大な費用と犠牲を払った。
戦国時代を制したとはいえ、秦にはまだまだ不安要素があった。北側には遊牧民である匈奴族がいたし、謀反の恐れもあった。それらに睨みを利かせるための巡幸であったし、反乱の恐れのある民衆に財力を持たせないためにも、圧政を強いた。

民衆は疲弊する中、始皇帝自らも諸国巡幸中に命を落としてしまう。

始皇帝の巡幸を見る中に、次の時代を争う二人がいた話は有名である。
「項羽と劉邦」

絶対的な権力を誇示した始皇帝も、予測しない死による混乱を招き、内乱を生んだ。

一度は秦によって滅ぼされた「楚」は、ここを好機とみなし秦の討伐に出た。
西楚の覇王を名乗る「項羽」である。

【始皇帝と秦篆】

篆書というと主に小篆(秦篆)を指し、始皇帝が定めた統一書体として有名である。


「泰山刻石」

多分に始皇帝は完璧主義者であっただろう。
絶えず巡幸を繰り返したことや、徹底した統一と民衆の締め上げを図ったこと。彼にまつわる数々の伝説を読んでみれば、そう想像がつく。

始皇帝以前の秦の篆書(大篆)には、どこか田舎じみた古い素樸さがあるが
始皇帝の統一した「小篆」には完璧な人造の美がある。
見事に比類なき完璧な、非自然の美しさである。

当時の刻石は、始皇帝の重臣であった李斯の書と伝えられるが、
線の太さ、間隔、文字の幅、左右対称の整然とした小篆の美は、完璧主義者たる始皇帝の好みに合っていたようだ。

巡幸中、全国に七つの碑を建立している。(始皇七刻石)

しかし小篆は秦の統一書体とはなったものの、実用的にはあまり使用されなかった。

秦の時代には既に紙が発明され(非常に高価ではあった)、木簡、竹簡などによる書も見られるのだが、これほど整った形の文字は書することそのものが困難であったのだ。

「篆書」は、実印をはじめ碑額、題額等に用いられ、最上級の権威を持つ文字と言える。だが、その用途は終に象徴的であり、当時から日常の筆記に用いられることはほとんどなく、さらにそれが「書作」に多く見られるようになるのは清の時代まで待たなければならない。

初めての統一王朝を産み、始皇帝と名乗り、現代にまで継がれる文化の礎を築いた秦の始皇帝。始皇帝としてあがめられるものの、悪政を強いた評価は変わらず、ついにその存在は中国の象徴的な「皇帝」であった。

その彼が心血を注いだであろう「小篆」も、彼同様に象徴的なものなのである。

完璧を求めた政治。 完璧を求めた文字。

「始皇帝と小篆」 存在が揺らぐことのない絶対的なものでありながら、象徴に留まった歴史は、なんとも皮肉なものである。