「漢字」「漢詩」「漢学」「漢方」
中国由来 を表すものに、「漢」の字を用いることが多い。
現代中国でも大多数を占める民族は「漢民族」である。
「漢字」という言葉の由来となったのは「漢」という時代。
長い中国の歴史の中の一時代である「漢」が、このように中国そのものを表す言葉になったことにはそれなりに理由がある。
秦の始皇帝の予期せぬ死によって弱体化した「秦」、
楚の項羽が秦の討伐に乗り出した。
血気盛んな豪傑として知られる項羽だったが、配下にあった劉邦と敵対することになる。
秦の首都であった咸陽を先に落とした劉邦、項羽から怒りを買い、その後「鴻門の会」「四面楚歌」などでよく知られる項羽と劉邦の戦いが始まる。
この戦いを戦略で制したのは劉邦であった。劉邦は首都を「長安」(西安)に移し、「漢」の時代が始まる。長安は唐代を代表的に、この後も何度も中国の首都になっている。
「漢」は、「秦」が作った政治基盤を受け継ぎ、その後400年に渡って繁栄する。
劉邦が興した漢は西暦8年に一度滅び、王朝が交替され新たに傍系の皇族によって興された時代も漢と名乗ったことから、「前漢」「後漢」と呼んで区別する。
一時、項羽により劉邦が左遷され、秦嶺山脈を挟んで西安と隣接する場所が「漢中」である。この漢中から「漢」の国名が生まれた。この辺りの時代の歴史を知る上で漢中は非常に重要な場所である。険しい山脈に囲まれた盆地であり、長江支流である漢水の豊かな水にも恵まれ、たびたび政治的・軍事的な要地となった。上の写真はその漢中の町から西安に延びる桟道「石門桟道」である。(2014年撮影)絶壁に這うように桟道が作られていた。後漢に作られたこの桟道は、項羽と劉邦の時代にはこの桟道はまだ作られておらず、漢中から西安方面に抜けるには険しい山を越えなければならなかった。だからこそ項羽は劉邦をこの漢中の地へ左遷したのである。
後漢末の三国志の時代、劉備と曹操の激戦もこの石門桟道において繰り広げられている。
漢という時代、「書」の観点からしてもとても重要な時代になる。
とともに、とてもロマン溢れる時代に感じる。
まず、書に於いて大別される「篆書」「隷書」「草書」「行書」「楷書」のうち、篆書以外の全ての書体がこの時代に完成されたことが挙げられる。文字が初めて実用的に用いられ一般に普及した時代だと言える。
秦の正式書体として使用された「小篆(篆書)」は、実用には不向きであったために、漢代には自然発生的な簡略化が進められた。
その結果、小篆に代わる実用書体として生まれたのが「隷書」。
その後、さらに隷書の簡略化の動きが起こり、「草書」が生まれ、続いて「行書」「楷書」も生まれた。それらは1901年に尼雅・楼蘭から発見された『木簡』等の出土品により、その変遷が確認できる。その後、1930年代には大規模な発掘調査により一万点を数える木簡類が発見され、その後の調査により発見は百万点に上ると言われている。
当時、いかに文字を書くことが普及していたかを窺わせる資料である。
「木簡」とは、紙が普及する以前、木を短冊状に削ってそこに墨で書したもの。
それまで、記録のために削ったり彫ったりしていた文字だが、それが「書」として現代と同じように墨と筆で書くという行為が一般化した背景には、「木簡」の登場があげられる。
「書」としてその書法を語る最初期のものであり、文字の変遷を追うことができ、さらに当時の多くの人々の暮らしぶりを知ることができる木簡は、貴重な歴史資料であると共に「書」としてとても魅力溢れるものである。
そして後漢には多くの石碑、磨崖碑が建設されていることも見逃せない。
「書」が、書くという行為を経た芸術に昇華したのはこの時代のことであり、その芸術性を競い、かつその得手不得手が社会的に重視される文化が芽生えたのもこの時代である。
その芸術性は、漢が滅んだ後も六朝期の貴族文化の中で根強く残り、やがて王羲之、そして唐へと繋がっていくことになる。
基盤を作った「秦」、長期繁栄を導いた「漢」
「漢」は、政治的、文化的、経済的にとても前進的に発展した王朝だったと言える。
誤解を恐れずに言えば、戦国期と秦の圧政期を経て成長し、初めて長期の安定した政治を得た「漢」には、概して大らかで自由な気風が流れていたのではないかと思う。人々は自由と自己、繁栄を求めて生活を送っていたことだろう。
人々が初めて得たアイデンティティと、ものを書き、それらを残し表現する意欲は、
必然的にこの「漢」の時代に重なるのである。