「書」ってなんなのかなって、ちょっと考えてみた。
「書」に通じていない多くの人に言われることは、
「読めない」「わからない」 と言うこと。
それもそうだと思う。
書で使う文字は中国殷代から近代に至るまでの文字、
日本では主に奈良平安期に使われた文字を扱う。
書く文にしても、近代現代のものから唐時代や平安時代のものまである。
漢字が一文字二文字だけ並ぶ場合もある。
原則として「東洋」というくくりにはなるが、西洋の文を書いてはいけないこともない。
「漢字」「仮名」そう一口に言っても、非常に長い時代の、非常に多岐に渡る文字や文を扱うことになる。現代の日本で生活する日本人にとって、「書」で扱われる文字は、ヒエログリフやアラビア文字とそう大差がないだろう。「書道」という国文化でありながら、扱う文字はまったく馴染みがなく、ローマ字の方がよほど読めるのだ。
当然ながら文字にはとても長い歴史があり、現代の皆が読めるようなものがポンと現れたわけではない。 だから「読む」ためにも「書く」ためにも、それなりの勉強と修練が必要になる。現代の人たちが使う文字は、長い文字の歴史の中から見ればほんの一部の「楷書」に過ぎない。
ぱっと書道字典なるもので文字を調べてみる。「道」という一文字だけでも70近い文字の凡例があり、これら全てが「道」という文字なのだ。もちろん字書にある凡例も、ほんのほんの一部だということ。だから初めて書道展を見たとして、「読む」ことは困難と言わざるをえない。
ではその凡例全てを「書家」さん達は覚えているかというと、まぁまずそんなことはない。文字学者とも違うから。
聞いたことくらいはあるかもしれないですが、漢字は「楷書・行書・草書・篆書・隷書」という五つの書体に大別される。その五つからさらに、時代や地域、書き手など、細かく樹形図のように分別できると考えてもらってまぁ差し支えないと思う。
だからほとんどの書家さんは、その五つの書体程度は覚えている。
読める、書ける、ということ。例えば草書ひとつをとってもこんな感じ。
ほぼ読めないと思う。楷書に慣れきっている現代人には覚えるのも困難ではある。
書家さんが逆にもし覚えていなければ、それは少なくとも歴史に通じる書家ではない。
こんなぐちゃぐちゃな文字、、適当?
と思うかもしれない。 でもしっかり規格があり、覚えれば読めるし書けるのだ。
ちなみに日本は江戸時代まで、「草書」が常用の文字として使われていた。
さて、そんなわけだが、じゃあ勉強しなければ書はわからない?
決してそんなことはないと思う。
書を観る時に邪魔になることは、「読める・読めない」の可読性とそれに伴う「意味」の問題。
それと総合的に 「何を表現したいのか」その「意味」がわからないという問題。
この二点をクリアすれば書は観られる。
勉強して分かるようになることもひとつ。
もう一つは、『考えないこと』です。
何を?って、その作品の「意味」を考えないことが一つの見方として大きなきっけかけになると思うのです。
実は私たち、「意味」を考えることには非常に慣れています。
絵にはそもそも「意味」はありません。何を書いてもその意味は受け手の自由です。だから受け手はその意味を探ることで「鑑賞」をすることができます。
なぜ、いつ、だれが、どういう風に、何をおもって、何をみて、どんな背景があって、それを描いたのか、 それが絵を鑑賞する時の方法になると思う。
意味を考える理由として、絵には情報量が多いということが上げられる。
情報が多ければ意味を考えやすくなります。 映画や本も同様に。
抽象絵画の場合、描く対象が自然界にあるものに限られなくなるため、情報量としては少ないでしょう。意味を探ることが少し困難になりますね。
書の場合、意味が最初から限定されます。「道」と書けばそれは「道」以上でも以下でもありませんし、漢詩や和歌を書けば、その意味を知らないひとにとっては難解なものでしかなく、知る人にとってはその詩の意味を思い浮かべます。どちらにしても書の場合、そこに意味が付属してくるため、鑑賞者が作品そのものついて考える隙を与えません。
鑑賞者「これはなんと書いてあるのですか?」
作者「道 ですよ」
鑑賞者「道ですか」
おおかたこのようになり、「道」、と本文の意味を知ることで作品に意味・意図を探る必要がもうないように思えます。
最初から意味があるものに対して、意味を探ることはできません。
だから、『考えないこと』が重要になります。
その時、書作品が初めて、書き手の『筆跡』であることに気付きます。
「書」は、『筆跡』の美です。
鉛筆の筆跡とは違い、毛筆によるものですから、大変複雑なものになります。
書家さん達は、その「筆跡」に色を加え形を変え、様々な工夫と修練を積んで表現をしようとしている変な人たちです。 でも結局は自分の筆跡に他なりません。 筆跡は自分の体からもっとも至近距離にある「もの」。 自分自身にもっとも近いもの。
私はそう考えています。
意味を考えず、単純に作者の『筆跡』として書を観る。
内容を知ってしまった後の筆跡、母の手紙、友人の手紙、先生のの手紙、
思い浮かべてください。
自分に送られた無意味な手紙だと思って書作品を鑑賞してほしい。
それが、書のみかたです。
それでも鑑賞ができないとき。ご自分に鑑賞力がないなどと思う必要はありません。
そいつは 「つまらない書だ。」 と思って良いと思います。