金文(召尊)臨書
金文の文字としての美がどう決定づけられたものであるかは、当時の人でもなければわからないと思う。でも、そこに思いを馳せることはできる。
私たちの目からすれば、これらはなかなか文字には見えないだろう。
(歴史的観点から文字と認められていることは明らかだが。)
この時代の後、秦、漢を経て、六朝、唐へと進む間に洗練され変化していった文字が、現代人にも認識しやすい「文字」だとするなら、
なにかのマークであるか、文字らしき何か。だ。
私の目には、やはり「金文」は、夢のある文字。なのだ。
文字が文字として未だ定型になく、いろいろな組み合わせたり引き延ばしたり、様々に様相を変え、文字が記号の要素を存分に含んだままに生き生きとしていた。
人々は文字を使える喜びがあっただろうし、ポリティカルな場面でしか使用されないとても神秘性を持ったものでもあった。
唐代の漢字のような、「王朝の臭い」を放つものでもない。
自由で互いが語り合うように並ぶ姿は、見ていてなんとも愉快だ。
「金文」の臨書はそういう気持ちをもってやってみたい。
と、言いつつ、少しまじめに書きすぎたかなと反省してみる。笑
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「召尊」九月在炎
筆 啓太用筆(特注羊毛超長鋒)
墨 興雲(呉竹)
(二玄社・中国法書選)