書家 小野﨑啓太

『欧陽詢』ってどんなひと?(九成宮醴泉銘)

2018.1.25

『欧陽詢』ってどんなひと?(九成宮醴泉銘)

欧陽詢(557-641) 画像「九成宮醴泉銘」 (二玄社・中国法書選)
(おうようじゅん)

この人が生きた時代は、「陳」「隋」そして、「唐」という時代。
いまの中国。

中国は南北朝時代。 北には「魏」(三国時代の魏とは別)という大国があり、(陳のあった頃は北周・北斉)
南には東晋からの漢民族の貴族文化を受け継ぐ国があった。(宋→斉→梁→陳)

欧陽詢は、「陳」という江南にあった国の豪族として生まれる。何度も王朝が変わり分裂を繰り返す中国の歴史だが、彼は三つの時代にまたがり生きることになる。

欧陽詢の父は、歐陽紇といった。 陳の時代、挙兵したことにより、反逆罪として処刑されている。詢が十三歳の時だった。豪族の出とはいえ、不遇な少年時代を過ごしたことだろう。幸いだったことは、父の友人であった江総に引き取られ、処刑を免れたことだった。
十三歳とはいえ、反逆を犯した者の子弟、一族を処刑されても不思議ではなかった。

詢、生きている間に二回、国が変わる。

この時の中国は大きく南北に別れ、彼が生まれたのは南朝にあたる「陳」。文化も習俗も北の魏とは大きく違っていた。

この南北の統一に成功したのは「隋」。詢、24歳だった。反逆者の子息という汚名を持った青年が、転機を得るときだった。

この頃、日本は遣隋使をはじめ、多くの国交を結ぶことになる。
南北の文化が入り交じり始めた隋、日本はその両方の影響を濃く受けることになる。
殊に仏教色の強かった北方の文化からは、写経など経典も多くもたらされた。
王羲之をはじめとする南朝系の書簡などの流入もあっただろう。
隣の大国に、日本はただただ驚くばかりだったはずだ。

南北が統一されたことにより、南北でまったく違った書の文化も、大きく次の世代に変わろうとする中に、欧陽詢は生きていた。南と北。その全く違った二つの文化が、彼の最晩年まで影響を及ぼすことになる。

幼い頃からとても聡明だったそうで、隋のとき、若くして太常博士という称号をもらっている。隋が煬帝の悪政により滅びると、次いで「唐」。詢、還暦を迎えていた。

ここから中国史上最大と言われた世界一の都市国家、「唐」が始まることになる。

欧陽詢は、高祖、太宗の二代に渡る唐の皇帝に仕えている。

太宗皇帝が「書」の文化を最重要視したことで、書と学問と政治は密接に関わることになる。「書」ができなければ、要職に就くことはおろか、官僚として登用されることさえもない。太宗皇帝が書の規範として最も重視したのは「王羲之」。唐の時代からも遠く東晋の貴族で「書聖」と呼ばれていた。

そのような中、欧陽詢は、若き皇帝であった太宗を支える重臣として抜擢されていた。

欧陽詢は、どんな書体も得意としたと言われている。
中でも得意だったものが、楷書。
太宗は、通貨にも彼の書を用いたと言われているから、太宗が彼の書を好んだことは間違いない。

南の「陳」で育った頃、欧陽詢もおそらくは王羲之風のやわらかく流麗典雅な書を学んだはずだ。

「唐」では王羲之の骨法を重視しつつも、その楷書には強く厳正な北朝の気脈が、書の随所にも見られるようになる。

その完成を示したのが欧陽詢の書だった。
代表的な九成宮醴泉銘(画像)
「唐」、都がおかれた長安の夏は暑い。避暑に出かけた太宗。その場所を九成宮と呼んでいた。もとは随代から使われていた仁寿宮という場所。太宗の代に改築した。
高地にあった九成宮は、もともと水不足に陥りやすい場所で、
そこに、たまたま湧き出てきた水。
これは唐(太宗)の善政を表す吉兆! とばかりに喜び、そこに記念碑を建てることに。

臣下である魏徴が文を書き、欧陽詢が書した。
時に欧陽詢、76歳。初めての、勅命だった。

「後世に我が徳を伝えよ」 太宗は詢にそう命じたかもしれない。

南北を統一した隋を受けた唐。中国史上最高の栄華を誇った唐太宗の時代。

「南北を統一し、この国に安寧をもたらしたのはこの国、唐だ。陳のときにみた王羲之の伝統を継ぐあの流麗さ。この新しい長安の都でみた殺伐とした北魏の美。二つを共にすることが、これからの伝統になるだろう」
詢はそう考えたに違いない。

屈指の書人たちが示したその書。

その書をして、根底から、
南北の統一をはかったのだった。

地方豪族から高級官僚にのし上がった欧陽詢。聡明でありながら、容姿においては非常に恵まれなかったといわれる彼は、サルと言われた豊臣秀吉とどこか重なるところがある。

不遇だった少年時代。 時代は彼を見放すことなく、のし上がった。

彼が作った美が、1400年を経たいまもって楷書における最高の美として不動の位置にいるのだ。


「皇甫誕碑」 約76歳

「化度寺碑」 75歳


「温彦博碑」 81歳

「仲尼夢奠帖」行書

初唐という時代は、殊に楷書を好んだ時代でもあった。
有名な唐碑の多くも楷書である。
新しい公的な書体として「楷書」を位置づけたようにも見える。

もちろん楷書は、唐以前にもあったが、王羲之風のもの、北魏風のもの、どちらをとっても唐のものとは違った趣がある。

「王法にあらずは書にあらず」
(王羲之風の文字でなければ文字ではない)
と言われた唐代、
科挙の回答にはビシッとした楷書が使われていたのを、私も実物を見たことがあった。
王羲之にも楷書はあるが・・・。しかし明らかに王羲之風の楷書よりも洗練された都会的な美、唐の楷書のそれだった。

王羲之を踏まえつつも、唐楷書の洗練された都会美を、太宗皇帝は、彼らと共に、新しく提唱したのだと考えられる。

唐の書は北朝・南朝そのどちらも踏襲した美と言える。

欧陽詢は 虞世南・褚遂良 と共に「初唐の三大家」と呼ばれている。

陳、隋、唐、波乱の時代を生き抜き、

85歳の天命を全うした。