―求めるもの―
何か一つを求め、未来永劫へ持って行くことができるとしたら、なんだろうか。
この問いは即ち、一度限りの生において、何を求めるか、ということでもある。多くのものを求める機会に恵まれた今日、多様な価値観があり、多様な人生がある。選択する自由こそあれ、反して私たちは、多くの場合、日々の雑事に追われ過ごしているようにも思う。「人生に何を求めるのか」その問いの本質に気づいた時には、持てる時の大方を費やしているかもしれない。十六、七歳の頃、大きな葛藤のなか、この問いとぶつかっていた。いま私は、「単純であれ」と、自分に言い聞かせている。自分の持てる感覚を愛し、感情を大切にし、純粋な熱情に目を向けること。そのことに生のすべてを費やすこと。
「求めるもの」は、既に持っているものかもしれない。
―夢―
「あなたの夢は何ですか?」 幼いころ、そう問われた経験は誰もがあると思う。
おまわりさん。新幹線の運転手。 お花屋さん。ケーキ屋さん。
ふと思いついた私の夢には、近くの公園がでてきた。一人のおじいさんが、絵を描いている。人の絵を描いたり、風景を描いたり。たまに描いた絵を売っている。似顔絵を描くと、「全然、似ていない」と言われる。描かれた人物は、嘆いたり、怒ったり、あるいは微笑んだりしていた。そうして絵を持って帰る人を見送っている。無名で、地味な格好をしている。ほとんどの人が、前を通り過ぎてゆく。絵を描く手の傍らには、いつも一枚の写真が置いてあった。その写真には誰が写っていただろうか。今は思い出せない。
それが、幼いころの、私の夢だった。
―書―
書は、自画像である。生涯をかけて描き出す自画像である。悲しみも、喜びも、弱さも強さも、描き出される。若くはりさけんばかりの鮮やかさと熱も、老いておだやかに深い佇まいとなった姿も、黒色の自画像に変わる。一面的でない、内面も外面も映した自分が描き出される。書かれた文字は、歴史のヴェール。大切な借り物に身を包み、時を繋いでいるもの。自画像、己の姿だから美があり、他の誰にも真似られない美がある。書は物質ではない。書は生命力によって動かされ、生命そのものとなりうる。誰にも模倣することはできず、己そのものになる。
生命の律動により生まれるもの。そこにテクニックがあるとすれば、己を見んとすることに他ならない。
―スピリット―
信じることである。信じることからすべての力は生まれる。難しいのは、行動することではない。その行動を信じるかどうかである。裏切られることもある。不可抗力もある。どうしようもない力が働くことがある。自分の力はこんなにもちっぽけなものかと、絶望することもある。それでも、信じてみることだ。一作が書けず、幾日も費やしたことがあった。自分を見失い、高望みをし、外観に気を使い、誰ともつかぬ自分が手を動かしていた。格好をつけるな。
スピリットは、誰もが心の内に抱いている。
―美―
何かにすがることもなく、誰かをなぞることもせず、強い意思の中に自分が伝えたいことを見いだせ。たとえいま、できなくとも。
書は、二千年以上もの間、東洋において一大文化として存在していた。「文字を書く」という、原始的で根源的、その単純の背後にある超複雑難解の文化は、“人類の脳みそ”そのもの“人類が見る宇宙”そのものとも思う。百年以上前に始まった近代化と称される時代の波は、いまなお止まるところを知らない。多くの命が近代化によって生まれ、助けられ、人類を繁栄に導いた。飽くなき幸福への探求の結果だと言える。その一方で今も失われゆく生命があり、あらゆる文化が近代化の波にさらわれている。本来的な意義での「書」も、そういった中で失われてきた(限りなく失われていくに近い)文化の一つと言える。
次代に文化を繋ぐことは、これからの生命を繋ぐことである。
私たちが ―いま「求めるもの」とは。―
書家 小野﨑啓太