「書」とは「筆跡」のことであると述べた。
「書」とは、意味を持つ文字記号のことではなく、個々の筆跡のこと。
であれば、ペン字で書いたものも「書」。
その通り。いかにもです。 筆による筆跡の美をあれこれと研鑽しそれらによる表現を「書道」とするなら、あなたがいまペン字で書いたものも、広義では「書」になる。
今日は、ペン字を含めた「筆跡」について考えてみたい。
ところで当ブログ内で「文字美講座」を展開中です。ぜひご覧いただきたいのですが、なにぶん更新が滞っております。徐々に。悪しからず。笑
「文字美講座」内で私が大前提として述べたことに、
「文字は美しく書こうとしなくてよい!」
があります。 「文字は美しく」「悪筆は一生の恥」「美文字!」と、言われ続けてきた私たちにとって、幾分、衝撃ではあると思います。
「美文字」という言葉、近年になって作られた造語だと思いますが、ここ数年で強い定着を見せています。文字を美しく書く。そのことに否定の気持ちはありませんし、これだけPCやそれに伴う機器が普及した現代も、書(筆跡)のことが顧みられることはとても素晴らしいことと思います。現代だからこそ、とも言えるでしょう。
しかし、前回の講座でも述べましたとおり、「美文字」とする、わかりやすい日本語にすればつまるところ「美しい文字」ということに少なからず不安も感じます。
私たちはそれぞれに身体の特徴も違えば利き手も性別も違う。現代にして考えてみれば日本で暮らし漢字を使う外国人の方もたくさんいる。それぞれに能力や時間的制約もある。それらの人たちが「美文字」美しい文字を果たして書けるだろうか。「美文字=美しい文字」としてしまうことで、筆跡を残すことを敬遠されては、いかがなものか。
年賀状の時期であった。考えてみると、本当にPCを使った印刷物それのみの年賀状が多い。時間がないからだろうか。それもあると思う。しかし、十枚、二十枚程度のものであれば、ペンを使ってみたらどうなのか、と思う。
多くの人が印刷を使いながらも、送られてくる手紙には、「やっぱり手書きの文字がいい。嬉しい」という言葉を多く聞く。自分の文字には「自信がないから、、」使わないのだそうだ。
そう考えると、確かに「美文字」は必要なのかもしれない。
しかしだ、ここで考えてみたいことは、
「相手から送られてきた手紙の文字について、あなたは『美しい』『美しくない』を判断しているだろうか?」
ということだ。
恐らくは、「相手の手紙が手書きであれば嬉しい。」のではないだろうか。
文字が「美しい・美しくない」は、手紙の嬉しさにはほとんど関係しないようだ。もちろん、美しいにこしたことはないと思うが。
手書きがいいという理由はいくつかあると思う。
「言葉がうれしい」「時間を使ってくれた」「私を思ってくれている」「相手を近く感じる」。など。
手書きの文字には、たとえ「下手」でも、「手書きであること」その文字の善し悪しに関係なく、これらのことを伝えられる力がある。
多くの人がなんとなくそのことまで理解していながら、ではなぜ、自分が手書きをすることには抵抗を感じるのだろうか。
そこにはこれまで日本が行ってきた情操教育、ことに「書道」「習字」「書写」「書き方」、あるいは「書道教室」による教育のある決定的なミスがあるように思う。
私は「書家」と名乗っている。反面では分かりやすくそうしている気持ちもあり、ずいぶん気取った言い方だなとも思う。変な言葉だなとも思う。
よく、「文字がきれいでいいですね、」と言われる。 まだ僕の文字を見ていない人にもそう言われる。笑 それだけ、「文字は美しく」が本当に多くの人にすり込まれているのだなと思う。自分が普段書きに使う文字は本当に美しいかと考えると、多分そうではない。それに、「美しい文字」は、普段使うにはとてもとても手間がかかるものなのだ。日常のメモや日記、手帳にはとても使えない。使うとしたら、改まった手紙の時 くらいなのだ。
それでも「美しい文字」は書けるにこしたことはない。
でも、「美しさ」を目標にすることもないと思う。 だって、手書きで気持ちは伝わるのだから。
上記のような教育の場面では、
「文字は美しく」「悪筆は一生の恥」「正しい姿勢で」あるいは「美文字!」
と、文字への感覚を叩き込まれる。そのことで、返って手書き文字に対する劣等感を増長してはいないだろうか。
このことには批判もあると思うから、一応断っておきたい。文字が適当でいいというわけではないのだ。一定の水準を要する「書家」や「筆耕」にはそれなりの技術も求めたい。美しく書きたい人はそうすることも良い。教育において文字の「美しさ」について知ることも必要です。
皆さんが考える「美しい文字」とはなんなのか。 どこで定義されたものなのか。
「良い字」と「うまい字」
言葉の綾のようですが、「良い」と「うまい」について知ってほしいと思います。
子供が鉛筆やクレヨンで書いたような、文字。おおらかで純真で素樸な、でも私たちから見ると「へたな」文字。よく下手な文字を形容するとき、「小学生が書いたような」ということを言われます。しかしそれは、私たち大人が真似るにも真似られない、「無私」の心を感じます。幼児の声が誰も似て大人の心をくすぐるものであるのと同じように、彼らの文字には楽しさや奔放さを感じます。
私はこれら子供の文字を「よい字」の代表格と考えています。
もちろんそれは一種の比喩ではあり、そのように大人が書くことが良いとは考えていません。このいわば「無私」に近い無欲で純真な文字が心を打つ。
文字を見て、文字から離れて、「いいな」と感じる。極言すればそれが「良い字」です。
これまでの習字教育では、まず基礎的な書き方を身につけさせる。字の形を。止め、はね、払い、そして姿勢を。
お手本通りの「うまい」上手な筆跡は書き手の素地を隠す。徹底して習字(文字)に対するマナーを学び、技巧主義に繋がっていく。文字から溢れる人間性を隠し、ひたすら習熟し書き慣れて、完璧な角度、速度、形を身につけていく。いつしかそれはもうそこから抜け出せない決定的な殻を身につけていくことになる。
とにかく一様の教育は、それこそが教育と言わんばかり。それが誰であり、どんな特徴を持った人でも、お手本と教育には変化がない。
ある子供のお習字を見ていたとき、横にいたお母さんがしきりに言う。「筆を立てて!そう」
筆を立てるって、誰が決めたのだろう?
日本の習字教育は、えてして「良い字」よりも「うまい字」を教えては来なかっただろうか。
「うまい字」 はあなたの外側に。
「良い字」 はあなたの内面にあるのです。
小野﨑啓太
~まとめ~
その人の品性や人柄が窺えるから、手書きはいい。
あいさつは、元気よく笑顔でしてもらった方が嬉しい。どんなマナーよりも。