石鼓文 (二玄社・中国法書選より)
写真 Wikipediaより
石で作られた鼓型の石碑で、現在北京故宮博物院に10個が現存する。
これらが作られた時代は春秋戦国時代の「秦」
「秦」という時代は「秦の始皇帝」が建てた国として知らない人はいないが、
始皇帝が立つ以前には春秋戦国時代の強国として長く存在していた。
始皇帝以降の時代を「秦朝」といって区別する。
春秋戦国期の文字資料は決して多くはない。 殷・周代の金文が多く伝わり、
「秦朝」となって文字の統一が為されるまでに、約550年の間、文字が発展し民衆に広まったことは、書道史上、もしくは世界の文字全体の歴史的観点からしても見逃せるものではない。
殷・周を通して「文字」は神への捧げものであり、国家行事にのみ用いる神秘のものであった。
民衆が文字を理解し、使うということは、情報の流通が起こることになり、国家にとって甚大な被害をもたらしかねなかった。
文字が多くの民衆のものになったことで、長い戦乱の時代が始まったと言えるのかもしれない。
それにしても春秋戦国時代は550年続いている。
この間にはこの後の中国に絶大な影響を与える思想が多数生まれている。
儒学、孟子、戦国策、
たとえば 「来る物拒まず、去る者追わず(孟子)」といった日本にもなじみの深い言葉も、この春秋戦国時代に作られたものであるし、
五十歩百歩・矛盾・臥薪嘗胆・蛇足、教科書にも出てくる多くの故事成語が生まれている。
戦乱に学ぶことは、後世に大きな影響を与えるらしい。
その戦国時代、「金文」の後を承け、先にも紹介したような文字が各国にあった。
楚文字
https://onozakikeita.com/blog/kinbunsomoji/
中山王方壺
https://onozakikeita.com/blog/kinbun2/
始皇帝の出現により度量衡・文字・その他が全土に統一される以前、「秦」ではこの「石鼓文」のような文字が使われていたとされている。
当然、始皇帝が文字を統一する際、自国の文字であったこれを大きく参考にした。
秦の始皇帝が統一した文字を「小篆」と呼ぶのに対し
それより古い戦国期の秦の文字を「大篆」 と呼ぶ。
不均等不均一が金文の特徴であったが、
そのシンメトリーな構造が更に純化され、より精細で明確なものになっていた。
石鼓文は、当時の王の様子を描いた文が書かれているとされる。
それだけ精細な文を表すことが可能になっていたということである。
唐代に発見され、その後幾多の戦乱を経て不明になり、
また発見されるということを繰り返しているらしい。
石臼に使われていたものもあるというから面白い歴史がある。
中国の内戦により、多くの中国の遺産が台北にうつされるなか、石鼓文は北京にとどまった。
北京故宮博物院へは訪れたことがあるは、残念ながら石鼓文を見た記憶がない。
もう一度訪ねてみたい。
清末の呉昌碩がこの石鼓文の臨書に生涯を懸けたことは、広く知られることである。