書家 小野﨑啓太

『木簡』ってどんなもの??

2018.3.23

『木簡』ってどんなもの??

中華人民共和国の地図をGoogleで見てみると、西側と北側が大きく砂漠に覆われていることがよく分かる。
南側には高原が広がっており、その先がヒマラヤ山脈だ。
北側には内モンゴル自治区、西側には新疆ウィグル自治区、南側にはチベット自治区と、他民族が多く暮らす自治区域がある。
その中で、新疆ウィグル自治区に位置し、山脈に囲まれたひときわ広い砂漠が、タクラマカン砂漠である。


北に天山山脈、南に崑崙山脈と、壁に囲まれた不毛の大地で、年間降雨量は40ミリ以下というから「死の砂漠」と呼ばれることもよく分かる。
タクラマカン砂漠の東側は、昔、西の果てと呼ばれた玉門関、敦煌があり、中国とその先である西域との境であった


かつてタクラマカン砂漠はいくつかのオアシスに恵まれ、西安から敦煌、西域、そしてインド、中東へと向かうシルクロードの要衝として栄え、ホータン、楼蘭などの国家もここに存在した。西欧、中東、インド、そして東アジア、つまりユーラシア大陸を大きく繋ぐ主要なルートであり、さまざまな文化、宗教、言語、人種がこの地に往来したのだった。しかし、タクラマカン砂漠近辺のオアシスが絶えてからの長い間、手つかずの地となっていた。

20世紀のはじめ、タクラマカン砂漠を含む中央アジアの発掘に挑んだ人たちが多くいた。スウェーデンのスウェン・ヘディンの探検隊はその代表的な存在で、1900年からの発掘調査で多数の古仏、壁画、貨幣、簡牘(手紙類)を発見している。史書にその存在があり、当時確認されていなかった楼蘭の都市遺跡を発見したのもヘディンであった。
イギリスのオーレル・スタインもほぼ同時期にここ一体(ニヤ等)の調査を行い、敦煌の仏画、仏典、古文書を同国へ持ち帰っている。
また、日本からも大谷光瑞・橘瑞兆らの探検隊がここを訪れている。大谷光瑞は、浄土真宗本願寺派の法主であり、インド、中国を経た仏典のルートを探ることが目的だったとされる。

1901年、彼らの調査により、奇しくも書の歴史のうえで重要な転換点となったものが発見された。
「漢」の時代、木を削った短冊状のものに書を記した、いわゆる「木簡」の類である。敦煌、居延、楼蘭、ニヤ遺跡で多く発見された。
木簡の多くはポプラなどの乾燥に強い木で作られ、加えて降雨量が極端に少ない乾燥の大地が、1800年もの時を超えて当時の直筆をそのままの姿に現代に運んだのである。
まさにタイムスリップと言わんばかりであった。

木簡にある内容は、食料や薬の管理、裁判の記録、罪状、日記、政治上の通達等幅広く当時の生活を記したものであり、その多くは敦煌・居延の地で匈奴等からの見張りをする役人が記したものと考えられている。

秦には既に木簡が普及しており、秦隷と呼ばれる隷書への過渡期の文字、漢の隷書、隷書からの省略による草書、さらには楷書もこの時代(後漢)には成立していたことが判明した。それまで、漢の時代の隷書碑は発掘されていたものの、小篆から隷書までの変遷の歴史は抜け落ちており、書の歴史の上では暗黒の時代とされていた。
秦、漢、晋という文字の大きな転換期において、木簡が使われ、その変遷と筆法を現代に伝えたことは歴史上の奇跡という意外にはない。人類最古の筆跡であり、当時の生活を物語る資料であり、文字の観点からもその変遷がありありとわかるのである。

繋がらない文字のDNAが繋がった瞬間が、1901年の彼らの発見であった。

なにより、隷書碑では見ることができなかった当時の人々の生き生きとした筆致が見て取れることである。紀元前に近い頃の人々の姿である。それを歴史のロマンといわずになんと言おう。

木簡はシルクロードが残した書の宝なのである。

敦煌には訪れたことがないが、近々行ってみたい。

 

※タクラマカン砂漠でのブログを発見したので、ご覧ください。

https://blogs.yahoo.co.jp/sakurai4391/35640210.html