「楚王盦鼎」(二玄社・中国法書選より)
こちらも金文。金文でも西周のものではなく、
春秋戦国期にあった「楚」という大国で使用されていた書体。
こちらも前回ブログの中山王の文字同様、後に「秦」に統一されると同時に廃されたと考えられる文字である。
“「楚」という国、かの有名な「矛盾」に 楚人有鬻盾与矛者 として出てきますね。
中学校・高校の教科書の漢文でも取り上げられている「楚」の国です。”
周代の金文の影響下にありながらも独自の形を示し、解読できない文字や大きく形のちがうものも多くある。楚の国は南方に位置した国であったので、当時南方で多く使用されていたと考えられているが、東側から出土した鉄剣の銘などに楚系の文字に近い用例も見られ、(侯馬盟書・温県盟書)当時中国全土でこのような文字が使われていたと窺い知ることができる。
円性を帯びて右側に傾くのが特徴。
竹簡(郭店楚簡など)や帛書なども多量に出土しており、当時一世を風靡していた文字と考えてよい。
(竹簡 Wikipediaより)
歴史にもし、はないのだが、「もし」 「秦」国が全土統一を果たさず、長い春秋戦国期の末に中華の歴史が進んでいたとしたら、この「楚文字」がその後の文字の母体になっただろうことは想像に難くない。 もしかしたら現代の日本の私たちも、このように右側に傾いた丸い文字を書いていたのかもしれない。
それほどに、この後「秦」が全土を統一し、「小篆」を文字の規範としたことの意味合いは大きい。
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