書家 小野﨑啓太

書作で色を使う

2020.2.26

書作で色を使う

書で色を使うこと、墨以外のものを使うことは、見る側にも書く側にも抵抗がある。
「これは書作品です。」と言われても、見る人はクエスチョンマークさながらの顔をするに違いない。なぜなら、当たり前に「書」は、黒と白であり、つまりそれは紙と墨であり、文字であるからだ。
そういった「常識」の中に書はある。

さて、そこでその黒の領域である「墨」について考えると、なぜ黒いかと言われれば墨の成分が煤であるからだ。有機物が燃えたときに生じる炭素である。燃えかすなのだ。それを膠と混ぜて、乾燥させて作った物が固形の「墨」。固形墨はほぼ永久に原型をくずすことがない。硯の上で水とすりあわせることで液状の墨となる。膠とともに溶け出した黒い液体は紙の上で乾燥することで、これまたほぼ永久に色あせることがない黒色になる。最強の筆記用具であり、画材であり、ありとあらゆる用途で用いられた。決して書道のためのものだけではない。

いま書家も小学生も高校生もみんなが使っている最初から液状に出来上がったスミ、つまり墨汁というやつは、実は煤は入っていない。膠もほとんどのものは入っていない。色を墨に似せて作ったもの。まあ絵の具といってほぼ差し支えないと思う。そこまで言ったら言い過ぎだろうがアクリル絵の具の黒を薄めればほぼ墨汁になるのではないかとさえ思う。

実は墨汁も黒い絵の具なのだ。

なぜ、書家たちは本物の墨を使わなくなったか。
本物の墨を使っている書家もたくさんいるが、理由としてまず墨汁は「楽だから」だろう。本物は硯ですることにやたら時間がかかる。(しかし本物はもちろん色も書き心地も良い。良質の墨ならなおのこと)本物の墨をすった液体の墨は温度で凝固するし腐りもする。とても扱いにくい代物だ。もう一つの理由に、良質の墨が減ったことがあげられる。これには職人の減少、安い墨汁の普及、高度経済成長期の書家が高値でたくさんの良質な墨を買ったことがある。それよりなにより、墨の質を落としたことは、時代による筆記用具の変更だ。いま、筆を執るという言葉はあるが、そのために墨をする人はいない。良質の墨は市場から消えた。

無彩色である黒と白に勝る色合いはないだろう。墨と紙が織りなす色合いはながく人々に愛でられてきた。ひとすりでも違った色となる無限の黒は、東洋最高の美と言って過言ではない。わたしもその色に魅せられてきた一人であるし、これからも墨の色を求め続けるだろう。50年前に私が生まれたなら、墨に大金を費やしたに違いなく、それほど墨の色は魅力だ。

しかしいま、私たちが書展で目にできるほとんどのものは、墨汁の平たい愚鈍な色であり、
体温のこもるような本物の彩色、墨は、ほとんどみかけることができない。

それなら!だ。 墨と墨の制作の間に、色があってもいいだろう。絵の具が、アクリルが、油があってもいいだろう。

かならず文字が墨で書く物とはだれも決めてはいない。文字が墨と紙であった理由はその利便性と保存に優れていたためである。

私は色を使う。これは開き直りだ。現代の書に対する完全な開き直りである。 「墨」が豊富ではない、現代に生まれたのだから。現代には現代の書がありやり方があり市場があるなら、そこに飲まれていくしかなく、飲まれるなら利用しない手はない。
書に色があってもいい。やるなら鮮やかにやりたい。

そして、これは書である 書たる所以は「筆跡」 であること。
それが表現のためのものであれ、手紙であれ、メモであれ、書である理由は筆跡であること。それだけだ。
色(墨)は書の要素でしかない。

書がまた、おもしろく、自由になった。
本来、私の目に「墨」の黒色はこれ以上の鮮やかさを持っている。