写真 顔真卿・祭姪文稿 「愛」
「書」は古典への仮説。解釈と提唱。
古典を広げて、一度バラして解釈し(作家、時代などから切り離す)具現化して再提示するもの。
解釈とは運動的解釈(筆の動き)であったり歴史的解釈であったりする。いずれにしても古典解釈ということなしには「書」にはならない。
幅の決まった(ように見える)絶対的テーマ、「文字(古典)」という共通概念があるから書は書になる。その上で古典をバラしてどの時点を表現するかはそれぞれだが、古典に批准しないものは書作とは呼べない。古典は書作にとって絶対的な約束と言える。
主に一字書なんかだと「絵のようにみてくれれば」 と、説明するときによく使ってしまうけど、絵と書はたぶん根本的に違う。だからその言い回しは短絡的でしっくり来ない。作品は壁面芸術だからそう見てくれてもいいのだが、古典への提言、解釈という面は書作の上で省けない。
文学に正解はなくても誤読があるように、書にも正解はないがやはり誤読はある。では正解とは何かというと
古典解釈を続ける反復の中にしか正解はないということであって、誤読にならないために常に古典を読み解き続ける必要がある。
これはこう、と抽象的・技術的、カタチで書を片付けたら書作はそこで終わる。
九成宮が背勢で孔子廟は向勢で、なんてそれはテストの読解のようなもの。テキストとして示す上では重要だが欧陽詢や虞世南はたぶんそんなことは考えていない。
書の古典には、観る者に考える余地を与えてくれる。
なぜこれはこうなるのかと、右に左に議論をする余地がある。
それが観る者に余韻となっていつまでも響く。
単に形を古典に似せれば良いうことではなく
古典を観て感じたように筆を動かすこと。そのことを幾度となく繰り返すこと。
幾そこで見えてくる古典の動き、古典に流れる血液のようなもの。
それこそが古典解釈の上で新たな仮説となり得るものであり、
その仮説を得たものが、書作になる可能性を持つ。
以下、自作と古典とを比較してみた。
空海・灌頂記 (金剛蔵)
作品「剛」
藤原佐理 恩命状
王羲之・喪乱帖 (心)
作品「心」
李柏尺牘稿 (心)
作品「心」
顔真卿・祭姪文稿 「愛」