「泰山刻石」(二玄社・中国法書選より)
「秦」は列国を制し、長い戦国時代へ終止符を打った。
中国初めての統一王朝「秦」(紀元前221~206)の誕生である。
初めて「皇帝」を称した秦の始皇帝は、すぐさま中央集権国家を目指し、
度量衡・貨幣を統一した。
文字の統一も一大行事だったようである。
秦は、文字統一の意味をよくわきまえて、文字の制定を初めて政治的に利用した国家だったと言える。※文字統一の意味については下記。
秦朝は「石鼓文」のような、秦で古くから使われてきた文字を基準に、全土に文字を統一した。
ここで、楚や、中山で使われてきた文字は姿を消したと考えられている。
楚文字
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中山王方壺
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始皇帝は統一後、中国各地を巡幸し、その記念碑を建てた。
七つあったとされており、「始皇七刻石」と呼ばれている。
その一つが「泰山刻石」である。書したのは重臣の李斯とされる。
石鼓文 よりもすっきりと細長くなり、正確に計算された画と画の配分が見られ、典雅な文字である。
「小篆」(秦篆)と呼ばれ、狭義では「篆書」と言うとこの小篆を指す。
この篆書はきっと私たち日本人にも馴染みがある。
お札に推されている「総裁之印」などがそれであるし、印は一般的にこの「篆書」で作られる。
遠い紀元前、「秦」の文字なのだ。 「秦」の作り上げた文化が、その後の世代にどれだけの影響力を持ったかが窺える。
形式的にはなっていくものの、この篆書がなくなることはなく、殷・周の文字が発見される以前には最古の文字として重んじられていた。
また、秦はその絶大な権力を誇示し、始皇帝陵(墓)兵馬俑、万里の長城の建設を行った。
2014年 兵馬俑にて。(中国陝西省)
絶大な権力と武力で新しい社会を目指した秦、一万年の繁栄を願ったらしいが、わずか15年で幕を閉じた。
その後は、有名な「項羽と劉邦の戦い」を制した劉邦による「漢」の時代が始まる。
【文字統一と支配について】
“国の支配は、文字(言語)の支配から始まる。”
他国や異文化を制するとき、歴史の中ではその文字(言語)を抑圧する、変更するという行為がたびたび行われてきた。
植民地時代のアフリカ、東南アジア。異文化の言語を強制することはその地を征服する事を意味し、枚挙にいとまがない。言語を変更された被支配者は、それまで持っていた文化の流通に支障をきたすことになる。生活の基盤である言語が変更されれば、生活全般を変更せざるをえない。
言語そのものの変更とまではいかなくても、文字を制定し直すことはその土地の歴史の大きな転換になる。したがって、それらを制定した人物や政府機関等は、被支配層へ優位に立つと同時に、その土地の後々に大きな名声を残すことになる。
日本では「日本語」があり、言語の変更は行われていないと考える人も多いかもしれない。
しかし実際には、明治33年、小学校令により、それまでよく使われてきた仮名文字や草書の教育をやめた。
太平洋戦後には、漢字についても旧漢字→新漢字(例・學→学)のように改定があった。
これを「時代に則した改訂」と考えるのか、「政府や関係機関の思惑」と取るのかは難しい。
新しく制定されることで、昔の文献を「読むことができない世代」がやがてやってくるのだ。
江戸~明治中期頃の文を読んでみてほしい。まずほとんど読むことはできないはずだ。私たちはたった百数十年前の自国の文字を読むことができない。戦前の文字すら、解読に困る。
百年後の日本人達が、自分の書いた文字を読むことができなかったらどうだろうか。
私は、明治33年の小学校令は、明治政府による幕府への完全な決別のためだったと考えている。
中国でも近年「繁体字→簡体字」の改革が行われた。
ちょうど中華人民共和国が建国された1952年から簡体字の制定に取り組んでいくわけだから、政府の転換と文字の転換とが不可分であることは明白である。
文字の転換は歴史の転換なのである。