「中山王サク方壺」(二玄社・中国法書選より)
戦争の歴史こそ文字の歴史であり、興亡の歴史こそがその変遷の過程である。
中国という大国には、かつて幾度となく大規模な戦乱を起こし、王を殺し、また王を建て、遷都を繰り返し領土を奪い合った歴史がある。
長い平安の時代もあるが、その多くは「三国志」に代表されるような国や民族による戦闘の歴史である。
周(西周)(紀元前1046~)という大国は、殷を征した国だが殷の残存勢力には悩まされる歴史をたどった。紀元前771年、逃れるように東遷し、以後は「東周」と呼ばれることになる。と同時にそれは春秋戦国時代(紀元前770~221)の幕開けを意味した。
秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓 他、大小十以上国々がこの長い戦国期に興亡を繰り返していたことになる。
特にこの七国に於いては、君主がそれぞれ「王」を名乗っていた。
(秦の始皇帝以降の中華国君主は皇帝を名乗った)
南に楚、西に秦、北に趙・燕、中央に魏・韓、東に斉というイメージである。
楚や秦は言わずと知れた大国であった。
小国ではあったが趙・燕に囲まれるように「中山」という国があった。
強国に挟まれてさぞ息苦しかったことだろう。
遊牧民の国であったと言われ不明な点も多いのだが、この国の中山国王墓から装飾品とみられる美術品が多数出土したことで有名な国となった。
画像は
「中山王方壺」である。
同時に当時の酒も保存されていたというから驚かされる。
ある種の装飾製を帯びた文字で、均等の大きさ、幅、字間・字幅も均等に保ち整然と並んでいる。
背の高い細線の文字で曲線と直線を絶妙なバランスで交え、鋭く針のような線状。
型をつくり青銅を流し込むことで作られた西周の金文とは違い、銅器に直接鋭利な刃物で刻んだように思われる。
このような戦国期金文の用例は他の時代にはなく、小国の消滅と共に姿を消したものと考えられる。
大局的な書の歴史の流れの中には、枝葉のものと言わざるを得ないが、先にも書いたように、興亡の歴史こそ文字の歴史なのだ。歴史の中核にはならず消えていった文字達に、大きな魅力を感じる。
呪術性を帯びたようで少し奇妙ではあるが、ずっとみているとどこか愛らしく奔放な表情をみせ、
遊牧民であったとされる中山国の古代人達の息吹を感じずにはいられない。